12月1日(日)礼拝説教全文
「一人も失うことなく」 ヨハネ18:1~11
アドベント第一週
聖書教会共同訳 裏切られ、逮捕される
並行記事 マタイ26:47~56 マルコ14:43~50 ルカ22:47~53
この箇所は、他の福音書では「ゲッセマネの祈り」と呼ばれる箇所ですが、ヨハネによる福音書には、イエスの祈りの言葉はありません。代わりに17章に祈りの言葉があります。 ゲッセマネの園は、たびたびイエスがエルサレムに来られた時に、弟子たちとの会合・祈りの場として使われた場所でした(:1~2)。この園でイエスが捕らえられた時、イエスは弟子たちにどのように向き合われたのでしょうか?
1、 あえての行動をされるイエス(:1~4) 逃げ隠れなさらないイエス
「イエスはご自身の身に起こることを何もかも知っておられ」(:4)とありますが、通常人は捕らえられることを知っているならば、その場所へは行かないものです。しかし、イエスはあえていつもの場所へ行って祈られます。 苦難の道を回避なさらず、自ら進んで十字架を負って行かれるイエスの姿がここにあります。
彼らより先に夕食の席を離れて出て行ったイエスの弟子ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々が遣わした下役たちとを誘導して、ゲッセマネの園に向かいます。集団は松明(たいまつ)や灯(ともしび)や武器を手にしていました(:3)。深夜であることがわかります。真っ暗な園に向かって遠くから、沢山の松明をもった彼らが近づいて来るのがわかります。 祭司長やファリサイ派の人々とは、当時の世の権力者です。松明、ともし火、武器は、武力(暴力)と威圧力を持つ者です。一隊の兵士と下役たちは、集団の力の象徴です。 国家権力、武力、集団の力の前には、弟子たち十数人の小さな集団や個人は何の力もありません。
戦いは王が捕らえられ倒されてしまったら、その国は負けとなります。王自らが闘いに出るのでなく、戦いに出るのは王の兵卒たちです。一番後ろに王は立つものです。このような事態には、師であるイエスを守るべきなのは弟子たちです。事実、ペトロは勇敢に、夕食の席で「命がけでイエスに従います」と言った通りに、イエスを守る為に剣で敵に切りかかりました。 ゲッセマネの祈りの園の静寂が破られ、集団が武器を持って詰め寄り、「ナザレのイエスは誰か」と人々は問い詰めます。イエスはどうされたでしょうか。
2、 むしろ(=逆の)の態度をとられるイエス(:4~7) 世の力に優るイエス
イエスは隠れたり、恐れたりはなさいません。むしろ、堂々と自ら進み出て、弟子たちの先頭に立ち、「私である(エゴ―・エイミ)」と応えられます。
ここに不思議な表現があります。圧倒的な集団と武力を持ってイエスのもとに来た彼らは、イエスが「私である」とお答えになった時、「後ずさりして、地に倒れた」(:6)とあります。どういう状況なのでしょうか。 ここに、普通では考えられない、イエスの圧倒的な神の権威、人々を後ずさりさせ、倒れさせる威圧力を感じます。威圧力のあるのは、兵卒・役人たちでしょうが…
みなさん、主イエスの権威の前には、どんなこの世の権力も武力も太刀打ちできません。全てのこの世の力・権力を前にして、(迫害の中を通るイエスの弟子たち)私たちは恐れ、尻込みしてしまいます。しかし、神の権威を持って自己宣言をなされるイエスの言葉を聞きましょう。「私である(エゴー・エイミー)」
* ヨハネの表現 エゴー・エイミー「わたしは…である」
神の自己宣言の言葉 それは、ユダヤの指導者達がつまずいた言葉です。イエスが「自分を神のように語っている」「自分自身について証詞している」「自身を権威有る者のように語っている」からでした。 ユダヤの指導者達のイエスへの問いは「何の権威によって、これをするのか?」です。
「エゴー・エイミー」には、出エジプト記3:14で、モーセが、燃え尽きない柴に向かって、あなたの名をエジプトの王に何と告げればよいかを問うた時、「有って有る者」「わたしは有る」とお答えになった神・主の言葉があります。「有って有る者(私である エゴー・エイミ)」は、「神は何にも依存されないで有られるお方、守られたり、支えられたりされる必要のないお方」であることを意味します。 イエスと、イエスを捕らえに来た集団のどちらに力があったのでしょうか。 何の権威も力もない者(集団)に、あえて力あり権威あるお方がその御身をお任せになる、という構図なのです。
3、弟子たちを守り助けられるイエス(:8~11)
イエスはご自身一人だけが、ここで捕らえられて十字架へ向かわれます。これは、イエスが祈られたように、「誰も滅びることなく(:12)」「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(:15)、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした(:9)」という祈りが実現するためです。弟子たちがここで捕らえられ、殺されてはなりません(:8~9)。弟子たちをこの場から去らせようとされたのはイエスです。(:8)剣で切りかかったペトロに「剣をさやに納めなさい」とイエスは言われます。 ルカによる福音書では、この切られた者の耳を癒された(元通りに付けられた)ことが記されています。どうしてでしょうか。このまま切られたままだと、ペトロもこの場で捕らえられることになります。「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした(:9)」、「誰も滅びることなく(17:12)」「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです(17:15)」と祈られたイエスの祈りの通りになる為です。誰一人ここで殺されることのない為です。
守るべき者と守られるべき者の逆転があります。師であられるイエスが弟子たちを保護されるのです。ここに、イエスの弟子たちを、ご自身の命をもって保護される、イエスの愛があります。 世界に戦争の不安が拡がる中、私たちは平和の君であるイエスを見上げます。「剣を鞘に納めなさい」。イエスは剣で世と人々とを治める王でありません。かつてのバビロンもペルシャもギリシャもローマも武力で支配し、武力で滅びました。 愛によって支配される王、とことん愛して、とことん仕えて、最後には私たちをご自身のものとされ、ご支配されるお方、王、それがイエスです。 主は、武力・権力によって私たちを仕方なく主に従わせるのではありません。圧倒的な主の御愛に応えさせて、喜びをもって従わせる王です。このお方は私達が守るべき王ではなく、最後まで私達を守ってくださる王なのです。 「ひとりも失うことがなく」「ひとりも滅びることがなく」 。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16) 私たちが日々従う、王であり主であるイエスの権威とその愛を、この朝も深く感じ、受け止めましょう。 「私である」
0コメント