12月8日(日)礼拝説教全文
「あなたの信仰がなくならないように」 ヨハネ18:12~27 (ルカ22:31~34)
イエスが捕らえられてから十字架までの時系列は次の通りです。
(元大祭司アンナス)→大祭司カイアファ→サンヒドリン(当時のユダヤ最高法院)議会→ピラト(ローマ総督)→ヘロデ(ユダの王)→ピラト→十字架
真夜中の取調べ、翌朝の2度の裁判 ユダヤ最高法院とローマ法廷の裁判となります。
4つの福音書に裁判の様子が記されています。
真夜中の取り調べ
最初に引かれていった場所が元大祭司アンナスのもとへです。その後に大祭司カイアファの官邸へ連れて行かれます。そこには既に、大祭司カイアファ、祭司長、律法学者、長老、ファリサイ派の人々が集まっていました。彼らはユダヤの最高法院のメンバーです。真夜中にも限らず、用意周到にイエスを捕らえ、取り調べを行う準備がされています。 ヨハネによる福音書では、イエスが「弟子たちを去らせた」とありますが、マタイ、マルコでは、弟子たちは「イエスを見捨てて逃げ去った」とあります。しかし、ペトロとヨハネは事実、イエスの捕らえられた後に、密かに付いて行きました(:15)。何ひとつ手出し出来なかったのは事実ですが、4つの福音書にペトロはイエスの連れて行かれた場所へ付いて行ったことが記されています。他の弟子たちも、遠くへ逃げたのではなく、そのままエルサレムに留まっています。ペトロとヨハネは遠く離れて、身を隠すようにしてイエスの引かれる場所へ付いて行きます。 ペトロは、大祭司のカイアファの官邸の中庭に(今主イエスが取り調べられようとしているその場所へ)ヨハネ(もうひとりの弟子)の手回しによって忍び入ります。敵陣のど真ん中に乗り込むようなものです。どのような形であれ、ペトロのイエスを愛する、慕う思いは並大抵のものではないことがわかります。
しかし、思いもよらず、突然、門番の女がペトロに問います。「あなたも、あの人の弟子の一人ではないでしょうね。」不意の出来事だったのでしょう。咄嗟にペトロは「違う」と答えてしまいます。門番はイエスの弟子を門の中に入れる訳にはいきません。
3月、4月、ユダヤではまだ肌寒い時期です。夜中であったので(イエスを捕らえに来た人たちは松明や、灯りを持っていました)、大祭司の屋敷の中庭では、祭司の僕、役人たちが炭火を起こして、そこで火にあたっていました(:18)。ペテロもその中に紛れ込んで、誰にも気づかれないように、火にあたっています。そしてイエスへの取調べの様子を窺っていました。
(:19)大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問しました。 教えについてイエスは、「私は公然と話してきた。会堂や神殿の境内で教えた。隠れて語ったことはない。それを聞いた人々に尋ねなさい」私の教えを聞いた多くの証人から聞けばよいという内容です。傍にいた下役が「大祭司に向かってそんな返事の仕方があるか」とイエスを平手で打ちます。「私の言った事で、悪いことがあれば証明しなさい」と言われます。イエスの裁判の中で明らかにされるのは、イエスの教えにも、その行動にも何一つ罪となるものは無かったということです。「悪いところが無かった。」「罪が無かった。」「罪として訴えるものが見当たらなかった。」裁判の中で繰り返される言葉です。 (:25)
ペトロは立って火にあたっていました。火にあたっていた人々の中で、ペテロに気づいた者がいました。「お前もあの男の弟子の一人ではないだろうな」。ペトロは打ち消して「違う」と答えます。一度は、不意を突かれて答えてしまったかも知れない。しかし、この時ペトロの内に恐れが入り込みます。 さらに耳を切られた者の身内の者が「お前が園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか」。言い逃れのできない問い詰めです。ペトロは再び打ち消します。ペトロは3度、イエスを否定します。 するとすぐに鶏が鳴きます。
ルカによる福音書では、鶏が二度鳴いた時、取り調べを受けておられたイエスが振り向いて、ペトロと目が合います。「主は振り向いてペトロを見つめられた」ペトロは我に返って、イエスの言われた言葉を思い出します。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。彼は外に出て、激しく泣きます(ルカ22:61~62)。
ペトロを見られるイエスの眼差しは、どのようなものだったでしょうか。厳しく諫めるものだったでしょうか。失望と落胆のものだったでしょうか。 決してそうではないでしょう。 それは、愛と憐れみをもってペトロを見つめられるイエスの眼差しです。
取り返しのつかないような失敗、信頼・期待に対しての裏切り、大きな過ちを犯した人間に対して、世の中の人の目は、断罪、非難、軽蔑、失望、落胆を込めて向けられるでしょう。私たちはそのようなものが向けられる時、耐えることができません。
ペトロが大泣きしたその心境はどのようなものであったでしょうか。 自分は何と言う事をしてしまったのか。であるのに、このような私に、イエスはいつもと変わらない愛と憐れみを向けて下さる。 イエスは「七の七十倍まで赦しなさい」(マタイ18:22)と言われた通りのお方です。 イエスは、弱く、誘惑に脆く、罪を犯してしまう私達に対して、いつも愛と憐れみ、赦しの眼差しを向け続けていて下さいます。私達はこの徹頭徹尾変わらないイエスの愛と憐れみの上に、悔い改めをもって信仰の道を歩み続けることができます。 世は、サタンは、私たちの罪を訴え、責めます。神に従う道が、正しく生きる道が、いかに険しい道であるかを懇々と示し、説き伏せます。私たちは自信を喪失し、正しい道を進むことを諦めます。「あなたでは駄目だ」と、責められることほどに、信仰を喪失してしまう言葉はありません。
―ああ主の瞳 まなざしよ― 私たちも誰かに失望することがあるかも知れません。人の愚かさに怒りを覚えたり、憎しみを覚えたりすることすらあるかも知れません。しかし、人を生かすのは、愛と憐れみ、そして赦しです。イエスの十字架はそのメッセージに満ちています。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)
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