3月30日(日)礼拝説教全文
「決してあなたを見捨てない」 詩篇22:1~22
本日は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という詩を読みましたが、「決してあなたを見捨てない」という説教題にしました。
詩篇を読みながら、イエスの十字架をかぶせて読みましょう。
指揮者によって。「曙の雌鹿」による。賛歌。ダビデの詩。
この詩も、楽器を奏でて、調べに合わせて歌われた詩です。激しい詩人の嘆きの歌ではありますが、賛歌です。
「曙の女鹿」という言葉はここにだけしかありませんが、「曙の雌鹿」というタイトルの曲、メロディがあったのではないかとも言われています。 曙は、夜が明けはじめる時を指します。聖書の中では雌鹿は、その立ち姿が「美しく」「力強い」ものとされています。夜が明け、朝の光を受け、力強く優雅に立つ雌鹿というイメージでしょうか。 夜明けに復活されたイエスの姿を連想させるタイトルです。
嘆きの歌(:2~3) 「わが神。わが神。なぜ私をお見捨てになったのか」(:2)
ダビデは、神に見捨てられたという思いをいだいて、苦しみを絞り出すように神に訴えています。どのような苦難の中で歌ったのかは定かではありません。 詩人の嘆きは、敵に打ち負かされ、まるで捕虜となって、みじめな姿で、嘲りと罵声を浴びせられながら重い鎖に繋がれ引かれていく奴隷の様です。かつての栄光・力強さが輝きを失い、何一つ麗しさが無くなっている姿です。
「わが神」私の神と呼び、慕い、従ってきた私が、なぜ?捨てられるのか。 見捨てられる理由が見当たらない。自分の非が見当たらない故に「なぜ」と言葉が出てくるのです。 詩人の呼びかけに、神は沈黙されています。しかし詩人は黙っておられない。昼も夜も幾度も神に呼びかけます。しかし、神はお答えにならない。なぜ、私の「悲嘆の声」が届かないのか。お答えにならないのか。
皆さんは、祈っても祈っても、祈った通りにならない、という経験はないでしょうか。 確かに欲しい物が与えられない。願っていた通りにならないことは、もしかしたら神様のおこころではなかったのかも知れない。私の単なる自己中心の思いであるかも知れないと考え直すこともあるかもしれません。 しかし、苦しみの中にある時、痛みの中にある時、悲惨の中にある時、自分であっても、他者であっても、なんとかして、この苦しみから救ってほしい、逃れたい、助け出してほしいと願うことは、そう願うことは神のみこころではないと私たちには消化できないことです。 「私の神よ」と叫ばずにはいられない。しかし、私の言葉は遠く届かない。あなたは答えられない。私をお見捨てになったとしか思えない。2節3節は、そのような激しい悲嘆の内容です。
悲嘆から信頼(:4~6)
4節「しかし」と詩人は心を翻します。苦しみの中で思い起こします。「わが神」への信頼を呼び起こします。 「あなたは聖なる方」「イスラエル(先祖たち)が賛美した、その上に座する方」。私の先祖たちは「あなたに信頼し、救われました」「あなたに叫び、救い出されました」「あなたに信頼し、恥を受けませんでした」 そうです。あなたに信頼する者が見捨てられることはないのです。恥を受けることはないのです。
信頼から悲嘆(:7~9) 「だが」と詩人は再び悲嘆の声を上げます。私は人ではない。虫けら。人のそしりの的、民の蔑みの的。 私を見る者は嘲り、唇を突き出し、頭を振る。「主に任せて救ってもらうが良い。主が助け出してくれるだろう。主のお気に入りなのだから」と。そしられ、蔑まれ、嘲られます。その嘲りの内容は、「あなたの慕う神は、あなたを救う何の力もない」と。これは神に信頼する詩人にとって、自分を嘲られるよりも耐えられない言葉です。 みじめな姿を晒している私。そのあなたの神は、あなたをみじめなままにしておくのか。何のご利益もない。あなたを見ていて、あなたの神を信じる者はいない。「あなたの神は、あなたを救うことができない」という神を知らない異邦人ばかりからならまだしも、神の民である人々からの嘲笑なのです。「民の蔑みの的」
悲嘆から信頼(:10~11) 「あなたこそ」と詩人は「わが神」への信頼を呼び起こします。 「私は母の胎にいた時から、母の胎を出たときも、母の乳を吸っていた時も、そして今も、あなたは私の神」。 母の胎にいた時から、今にいたるまで、「あなたはわが神」。 これはどんなに大きな神への信頼の言葉でしょうか。
信頼から悲嘆(:12~22a) ここから、詩人の悲嘆の状況が、克明に打ち明けられています。 「私から遠く離れないでください」「苦難が近づき、助けてくれる人がいません」 あなたが近くにおられず、苦難が私の周りを囲んでいます。
「多くの強い雄牛のような敵が、私を取り囲んでいます」
「獲物を引き裂き、吠え猛る獅子が、私を食い殺そうと私に向かって口を開いています」
「大水に翻弄され、あちこちにぶつかって、その水に引かれる勢いで、私の骨はことごとく外れています」 「心臓は蝋の様になり、体の中で溶けています」
「力は素焼きのかけらのように乾ききり、喉はからからになって、舌が顎に張り付いています」
「手も足も縛られ、犬が獅子が私を囲んでいます」
「私はやせ衰えて、骨をみな数えることができます」
彼らはその私に目を留めて、私を眺め回しています。
「彼らは私の服を分け合い、衣をめぐってくじを引きます」
嘆願から賛美へ(:22b~32)
悲嘆の叫びは、神についに届きます。(22) 23節からの神への賛美は、また次の機会にメッセージさせていただきたいと思いますが、まさに、嘆きを突き抜けて、神を賛美する姿は、夜が明けた、明け方の光に照らされる雌鹿のようです。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という詩篇22篇の言葉は、イエス・キリストが十字架の上で語られた言葉です。マタイ、マルコは、それぞれ、イエスが十字架の上で語られた言葉を、大切にそのひとつだけを記しています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」
ギリシア語でこれを書かずに、アラム語、ヘブル語でイエスの発した言葉を書いています。
そして22篇に続く、嘲られ、罵られている言葉も、舌が上顎に張り付いて渇いている言葉も、イエスを囲む者たちが手足を砕くのも、衣服をくじで分け合っているという言葉も、図らずも詩人の悲嘆の言葉は、イエスの十字架の苦しみを指し示しています。
なぜ、お正しい方が、イエスは神から捨てられ、十字架の苦しみを経験されなければならなかったのか。 それは、「決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにはしない」申命記31:6.8 ヨシュア1:5 ヘブライ13:5「あなたがたを捨てて孤児とはしない」ヨハネ14:18「迫害されても見捨てられず、倒されても滅びない」第二コリント4:9、という聖書の言葉が確かであること、イエスは決して、何があってもあなたを見捨てない!それを今日あなたが知る為です。
イエスが十字架で神に捨てられたのは、どんなに私たちが罪深くとも、「私たちが決して神に見捨てられることがない」根拠なのです。
0コメント