4月13日(日)礼拝説教全文
「まことに、この人は神の子」 マタイ27:45~56
先々週(3月30日)の礼拝で詩篇22篇を読みました。苦難の先にある神の栄光「曙の雌鹿」の調べに合わせての賛歌です。 本日も詩篇22篇を思い起こしながら、マタイによる福音書の十字架の出来事を読みたいと思います。
聖書教会共同訳見出し イエスの死(:27~31)
イエスが十字架に付けられたのは午前9時でした(マルコ15:25) 3時間が過ぎ昼の12時になります。もっとも明るい時間ですが、全地は暗闇に包まれます。十字架のもとにいた人々は、一気に空が闇に包まれたこの出来事に、ただならぬものを感じたに違いありません。マタイ、マルコ、ルカがこのことを記しています。ある学者はこの日、日食が起こったのではないかという者もいます。
さらに時間が過ぎ、午後の3時になります。いよいよイエスご自身も自らの死が迫っていることを知られます。 イエスは大声で叫ばれます「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」その言葉を聞いた人々は、「エリヤを呼んでいる」と、イエスの言葉の意味を理解しませんでした。マタイもマルコも、これは、イエスの神への訴えであると共に、詩篇22篇のダビデの詩であることを記します。 イエスは恨み言を吐かれたのでしょうか。いいえ、私たちは詩篇22篇を通して知っています、この嘆きは、やがて「曙の雌鹿」に変わることを。
イエスが何かを求めていると勘違いした兵士は、すぐに走り寄り、綿のようなものに酢を含ませてイエスに差し出します。十字架の最初に没薬を混ぜたぶどう酒を拒否されたイエスは、最後にこれをお受けになります。 十字架で6時間血を流されたイエスは、身体から水分が失われて口がからからに乾いています。最後に大事な宣言を人々に分かるように宣言する必要があります。マタイは「大声で叫び、息を引き取られた」(:50)とあり、何を叫ばれたのかは記されていません。しかし、ルカとヨハネは、イエスの最後の言葉を記しています。「成し遂げられた」(「完了した」)(テテレスタイ)(ヨハネ19:30)「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)
「全地が暗くなった」出来事もそうですが、マタイ、マルコ、ルカはイエスが十字架で死なれた時の周囲の出来事を記します。 何が起こったのでしょうか 「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」 真っ二つに裂けた「神殿の垂れ幕」とは、神殿の中の聖所と至聖所とを隔てる分厚い垂れ幕です。最も聖なる、神の臨在の場所である至聖所と聖所とを分け隔てています。至聖所には年に一度だけしか、それもその年に選ばれた大祭司しか入ることは許されません。決して人の力では破ることのできない分厚い隔ての幕が引き裂かれたのです。 イエスが「全ては成し遂げられた」と大声で叫ばれたその時に神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。それは、イエスが十字架で成し遂げられた罪の贖いのゆえに!神と私たちを隔てるものは無くなった、誰でも神のもとに近づくことができるのです、というしるしなのです。 この出来事は、十字架の意味をはっきりと表すものです。3人の記者が記しています。
そしてマタイだけが、他の記者にはない、墓から死人がよみがえったことを報告しています。いったに何がどうやってどのように起こったのでしょうか。 「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。」 次々と不思議な出来事が起こります。 イエスの十字架のもとには、見張りをしていたローマの兵卒と百人隊長がいました。 彼らはこれらの出来事を見て、非常に恐れました。 そして、ローマの百卒長はこのように証言します。「まことに、この人は神の子だった」(マタイ、マルコ)「まことに、この人は正しい人だった」(ルカ) マタイもマルコもルカも、どうして、その場にいなかったのに、この百卒長の言葉を書き記すことができたのでしょうか。これは憶測ではありますが、イエスの十字架の一部始終を見張っていたこの百卒長が後に、復活されたイエスに出会い、イエスを信じて、そのようにイエスの弟子たちに証言したのではないかとも考えられています。
*「復活(RISEN)」という映画は、イエス・キリストを処刑した百人隊長クラヴィウスを主人公に、イエス・キリストの復活の出来事を描いています。
前回、十字架のもとにいた人を紹介しましたが、マタイは、マグダラのマリア、イエスの母ナリア、女たち、遠くから大勢の女たちが見守っていたとあります。 この朝、私たちもこの百卒長のように、十字架につけられたイエスを見上げます。
私の罪の身代わりに、 私の罪を贖うために、神に打たれ、苦しめられたのだと。
私の神への背きのために、刺し通されたのだと。
私の過ちのために、神に懲らしめを受け、打ち砕かれたのだと。
私たちは、このお方を見上げて、何と告白するでしょうか。
私はイエスの受けた懲らしめによって、平安を与えられました。
イエスの受けた打ち傷によって、癒されました。 「まことに、この人は神の子です」
罪ある者の為に、身代わりに死ぬ、何と愚かな男だろうか、と言うのでしょうか。
誰が私を罪から、この暗闇と死から救ってくださるのでしょうか。
このイエスこそが「神の子」でなくて、誰が神の子でしょうか。誰が私を救ってくださるのでしょうか。
このお方が「正しいお方」でなくて、誰が正しい者でしょうか。 十字架を見上げ、このイエスに、どんな罪を見出すことができるのでしょうか。
人は大祭司であったとしても、自分の為に贖いの供え物をしなければなりません。(レビ9:7)罪のある者は他人の罪を背負うことはできません。世でただ一人、傷のない小羊としての罪のないお方だけが、人の罪を負うことができるのです。イエスの他に、私たちの罪を贖い、救うことのできるお方は、世界にも、歴史にも、誰ひとりいません。
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