4月20日(日)イースター礼拝説教全文
「そこで私に会えるだろう」 マタイ28:1~10
どこでイエスと会っていますか
復活の朝から始まって、日曜日の度にイエスが、弟子たちにご自身を現わされたことを覚え
ハッピー・イースター!私たちの救い主イエスの復活を心から祝い、感謝します! イースターは復活祭です。イエスが死を打ち破って、よみがえられたことを記念する日です。 イエスは、私達の罪を贖うために十字架で血を流し、死んで葬られ、死の中に朽ちることなく、三日目によみがえられました。イエスが弟子達に「自分は三日後に復活する」と、何度も言われていたこと(16:21、17:23、20:19)が今朝、ここにも実現しています。
本日読んだ前のところでは(27:62~66)、イエスの遺体が納められた墓を大きな石で閉じ、封印し、墓の前にローマの番兵を立たせた理由について、「イエスが『自分は三日目に復活する』と言っていたのを 私たちは思い出しました。弟子たちがイエスの死体を盗み出すかも知れません」と言って祭司長やファリサイ派の人々が、ピラトに申し出たからとあります。 この記事を読むと、どうして弟子たちは、イエスが「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」と言っておられた言葉を思い出さなかったのでしょうか。イエスの反対者さえも覚えていた言葉です。(ルカによる福音書のイエスの復活の記事には(24章)、み使いの言葉を聞いて、「女たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。)イエスの言われていたことが実現しました。
キリストの教会が全世界に立っているのは、イエスの復活のしるしであります。十字架のみの出来事では、世界中にイエスの福音は伝えられていきません。イエスの十字架と復活が、イエスの福音です。イエスを伝えた証人とは、イエスの復活の証人です。
4つの福音書に少しずつ違いはありますが、4つの福音書が揃って伝えているのは、週の初めの日(日曜日)の明け方(28:1)です。 日曜日の朝、私たちが教会に集い礼拝するのも、イエスの復活のしるし・記念であります。私たちはイエスの復活の証人です。旧約聖書のモーセの律法による土曜安息から日曜主日(聖日)へ、安息日(聖日)の変更は只事ではありません。 今、日曜日の朝、私たちがここに集まりますのは、よみがえられたイエスにお会いする為に他なりません。 ここ教会はイエスとの会見の幕屋です。なぜなら、教会はキリストのからだだからです。
墓を訪れた女性たちに、素晴らしいイエスの復活の第一報がみ使いによって語られます。
「ここには(墓の中には)おられない」
墓は死であり闇です。イエスは死人の中にはおられない。死人の中に数えられない。死んだ偉人の中に数えられるお方ではありません。 骨はありません。冷たい、もの音ひとつ無い、虚しい、暗い 墓の中にイエスはおられません。 死は全ての人の最後の課題です。死の経験は誰ひとり避けられないものです。その事実を私たちは知っています。必ずその時は来ます。それは、年老いてからか、若い時なのかもわかりません。 死を迎える時が来ます、誰彼差別なく。 人の行き着くところは「墓」です。全ての人は死んで骨になり朽ち果てました。しかし、今日、この知らせを聞いて下さい。ただおひとり、「イエスは墓の中にはおられません!」これが私たちの望みです。
「復活なさったのだ」
復活は「曙の雌鹿」、輝く光です。そして命です。決して死ぬことのない永遠の、神と共にある神の命です。 イエスは復活されました。イエスにあって生きる人の生涯の最後は闇ではない、よみがえりであり、命です。 死に対する勝利とは、復活です。人類の死の歴史に対する勝利であり、私(達)の死に対する勝利です。
妻からどうしてイースターは卵じゃなきゃいけないのかと聞かれました。それはイエスの復活を説明するとき、象徴として用いるのに分かりやすいことにあります。 卵から、その殻を破って、新しい命が生まれる。卵と、ひよこはまったく違ったものです。聖書では、時はクロノス(時)とカイロス(神の時)という言葉が使われます。復活は、人が今と全く同じ罪人として蘇生し、時間を永遠に生きるようになることではありません。新しく生まれる、新しい命によみがえることです。「やご」がとんぼに、車が飛行機になるようなものなのです。 よみがえりとは、蘇生(いつかまた死んでしまう体)ではなく、新しいからだへよみがえります。 息を吹き返すのではない。新しい存在によみがえるのです。それは罪とは無縁のからだ、心、魂です。 死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないからだ(黙示録21:4) そして、私達もこのイエスと同じ復活のからだをいただくのです。
* 食べることはできます(ルカ24:37~43)。本当に良かったです。イエスの時代と違って、今は美味しい物がいっぱいあります。天国でもラーメンを食べたいものです。結婚はありません(マタイ22:30)。かつて結婚していた相手はわかると思います。
「会えるだろう(お会いできます)」
私達は復活されたイエスにお会いできます。これが重要です。 今、私達のこの人生において、歩みにおいてお会いできます。 どこでお会いできますか?
「教会でお会いできます」なぜならば、聖書の言う通り「教会はキリストのからだ」だからです。エクレイシア
「神を礼拝する人々の中でお会いできます」 (祈り、賛美、みことば)
「キリストにある兄弟姉妹の愛の交わりの中でお会いできます」コイノニア
「イエスに信頼する働き(仕事・家庭・学び)の中でお会いできます」
「心を合わせて、共に祈る祈りの中でお会いできます」共同体(ともに)
そして、「私の日常生活の、手を合わせる祈りの中でお会いできます」どこにおいても 密室(一人で)
「苦しみ、悩み、虚しさ、孤独の中でお会いできます」
「自分の人生のどん底と言われるような中にあってもお会いできます」
私たちは、復活され、今も生きておられるイエスにお会いできます!
40日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数々の確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを使徒たちに示された(使徒行伝1:3)。今もイエスは、私たちにご自身を確かに現わしてくださる主です。
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