1月12日(日)礼拝説教全文全文

「この人を見よ」 ヨハネ18:38c~19:7 

 ピラトはイエスの取り調べを終えて、官邸の外へ出ます。

 前回もローマの総督ポンテオ・ピラトについて少し話しましたが、ピラトは何とかしてイエスを釈放したいと考えていました。 ユダヤ社会に精通していたピラトは、祭司長・パリサイ派の人々・律法学者、ユダヤの宗教的指導者達のねたみと計略のゆえに、イエスが捕らえられたことを知っていました。イエスについては何も死罪に当たる罪を見出せない。ローマの法には何もふれていない。イエスが自らを王と言おうが、神の子と言おうが、ローマの法によって死罪に当たるものは無い。マタイによる福音書では、ピラトは妻から、この正しい人には関わらないようにとさえ言われていました。(27:19) それ故ピラトは考えたのです。「過越の祭りでは、罪人に恩赦を与える習慣がある。イエスとあの強盗のバラバを並べれば、民衆はきっとイエスを釈放するに違いない」と。しかし、その場に集まっていた群衆は、バラバを釈放するように叫びます。

 ポンテオ・ピラトの思惑 「この人を見よ」「エッケ・ホモ」 ラテン語   

 聖画における「エッケ・ホモ」の歴史。ミケランジェロ、レンブラント、カラバッジョ、ギュスターグドレ。特に19、20世紀において、「エッケ・ホモ」の主題は、キリストの苦難の描写から、暴力や戦争を通して人間の退廃にまでその意味を広げました。 

 これは、官邸の外に集まったユダヤの群集に向かって、ピラトがイエスを引き出した時の言葉です。 ピラトは兵士たちに命じて、イエスを鞭で打たせ、茨の冠、紫の衣を着せ、まさに痛々しい、王の道化の姿を装わせて、ユダヤ人たちの前へ引き出し、立たせます。今まで神殿で、堂々と人々の前に語っておられたイエスとは全く違った、見たことのない惨めなイエスの姿がそこにあります。 

 メル・ギブソン監督の映画「パッション」では、この鞭打ちのシーンが長く、鞭の先に動物の骨が仕掛けてあって、鞭打たれる度に背中が裂けるような残酷な場面が出てきます。通常は、死刑判決のあとで罪人は兵士たちの手に引き渡され、侮辱を受けるものなのですが、この時ピラトは、有罪が確定していない段階でイエスを鞭打たせました。それは、激しく痛々しい、みじめなイエスの姿を見せつければ、無慈悲な祭司長たちも、民衆も、イエスに同情して、これ以上の仕打ちを望まないに違いないという思惑があったからです。ですから人々に、「聞くがよい。私はあの男をあなたがたのところに引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせない訳が分かるだろう」と言い放ちました。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕う美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また、顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた」(イザヤ53:3~4) ピラトは、「滑稽な、みじめで、悲惨な王の道化師、まるで演出して舞台に呼び寄せるようにして、イエスの姿を民衆に見せれば、彼らも黙るに違いない。」と思っていたのでしょう。 「見よ、この人だ。」このみじめな、無力な者に何の罪があるのか、もうこれで十分であろう。そんな響きのある言葉です。

 私達はこの朝、「見よ、この人だ」「エッケ・ホモ」ピラトの言葉を聞きます。人々の前に引き出されたイエスを見ます。体中深い傷を負われ、茨の冠りをかぶり、紫の衣を上から羽織り、王に似せて装わせられたイエスの御姿を見ます。「この人を。見よ」 何ゆえにこのお方は、このような苦しみを受けられたのか。傷つけられ、打たれたのか。イエスはどんな生涯を過ごして、このような途方もない辱めを受けておられるのか。どんな罪を犯したというのか。なぜ、こんな悲惨な姿で罪人として引き出されているのか。

 何故か・・・その理由を克明に記している聖書の箇所があります。 十字架の出来事から約700年前、イザヤ53章がその意味を克明に記しています。「僕の王」と呼ばれる歌にあります。イザヤ53:1~6 。何ゆえ、王であるのにさげすまれ、 正しい人であるのに懲らしめられ、打たれたのか。 それは、 私達のそむきの罪のため刺し通され、私達の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし 彼の打ち傷によって、私達は癒された。 

 エッケ・ホモ「この人を見よ」。私の、あなたの罪の為に、その身に苦しみを受けられたイエスの御姿です。 私達はこの朝、私自身の罪と咎の為に、罪のない神の御子であられるイエスがこの苦しみを受けられた、十字架を背負われたことを知ります。 イエスは、私たちを罪から、死から、滅びから、闇から、悪魔の支配から、救い出す為に、この苦しみを受けられたのです。エッケ・ホモ「この人を見よ」私たちを愛するがゆえに。あなたを罪から、滅びから救わんがために。 

 ピラトの思惑はみごとに裏切られます。 祭司長たちや民衆はイエスを見ると、 「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。 さらにピラトは言います「あなたがたが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない」 するとユダヤ人たちは言います 「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」 自らを「王」と宣言しているだけでなく、自らを「神の子」と宣言していることをピラトは知ります。 「ピラトはこの言葉を聞くとますます恐れた」とあります。 どのような恐れでしょうか。 〈このままでは、自分の身に何かわざわいが起こるのではないか・・・。〉 

エッケ・ホモ 「この人を見よ」。 この朝、私たちの前に描き出された、民衆の前に引き出されたイエスを見ましょう。 知ってください。 私たちの背きの罪の為に、私たちの咎の為に 彼は刺し通され、砕かれたのだと。 そして彼への懲らしめが、私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私は癒されたのだと。   

日本ホーリネス教団 勝田台キリスト教会

2024年11月末までの勝田台キリスト教会のHPはこちらのアドレスでご覧になれます。 https://katsutadai-ch.amebaownd.com/ 千葉県八千代市勝田台7‐27‐11に所在するプロテスタントのキリスト教会です。

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