1月23日(日)礼拝説教全文
「主のもとに逃れる人」 詩篇2:1~12
信頼と最後の望みを置く場 「王の詩篇」と呼ばれる歌
王とは誰か 先週の礼拝では詩篇1篇を読みましたが、本日は続く2篇となります。1篇と2篇を繋がりのあるものとして解釈する人もいます。
150篇ある詩編の最初の第1篇の最初のことばは、「アシュレイ!」ヘブル語 אושר(感嘆詞)「幸いなことよ!何と幸いなことか!いかに幸いなことか」(新共同訳)で始まりました。 本日の第2篇の最後にも、アシュレイ(感嘆詞)「幸いな者だ!」の言葉があります。 2篇の「幸いな者」とはどのような人でしょう。それは、「主のもとに逃れる人」とあります。 本日は、「主のもとに逃れる人」ということばに心を留めましょう。
詩篇には「主を逃れ場とする」「主を隠れ場とする」「主を避け所とする」という同様の言葉が繰り返し歌われています。 1篇では、幸いな者とは、正しい道を歩む人(悪しき者・罪人の道に歩まない人)、主の教えを喜びとする人だと聞きました。2篇では、主のもとに逃れる人とあります。
詩篇第2篇の歌人は、世の人々、国々、特に諸国の王は、神に背を向けて、神の教えに逆らっていると歌います。諸国の王、国民は、「神の戒め、教えは、自由を奪う枷、縛っておく縄」だと言います。 神はそのような人々をそのままにしておかれるだろうかと歌人は告げます。 無政府状態、無秩序、法の機能しない国はどうなると思いますか? 人の持つ良心に従うことによって、善や正しさ、道徳、倫理を重んじる、優しい国や、世界になるのでしょうか。 王が神を畏れず、自らを神の様に支配し、振る舞う国はどうでしょうか。人々は自由に、穏やかに、伸び伸びと生活することができるでしょうか。そこでは略奪、争い、混乱、反発が起きないでしょうか。
イスラエルの歴史は、現在の中東のイスラエル共和国の地域に繰り広げられます。イスラエルは、聖書では、神がアブラハムとその子孫に与えられた「約束のカナンの地」と呼ばれますが、常に周囲を敵国で囲まれているという状態が続いています。聖書の記述では、様々な周辺の国々が、イスラエルに戦いを挑み、略奪を繰り返します。神はその度に「士師」を立てて、イスラエルを救われますが、ついにイスラエルの民は、預言者サムエルに王を求めます。本来、イスラエルの王は、主ご自身であるのに、民は人間の王を立てることを要求します。王がどのような存在であるかを主は語り、彼らの願いを聞き入れます。 イスラエルの本来の王は、神である主ご自身です。人間の王は神に立てられた(油注がれた)王です。王は神に聞き従う王であるはずです。この詩篇第2篇の歌が「王の詩篇」と呼ばれるのは、王とは主が立てられ、油注がれた者であり、「私の子」神の権威を託された者であり、民に地を相続させ、敵を打ち砕く者である。王の就任式に読み上げられたとも言われます。この歌を通して、王は、王の立場、役目を、宣誓しなければなりません。 ユダヤの王も、イスラムの王も、キリスト者の王も、王は神である主ご自身です。 本来(根っこ)は、同じ創造主である神が王であり、主に聞き従わなければなりません。
人は自分自身では、正しく生きることができません。全ての人が罪のもとにあるからです。人は聖書の語る幸いの中を歩むことはできません。 また、聖書は、人間の罪の世にあって神の教えに従って正しく生きようとする者は、迫害を受けると言って います。 世の人々は「なぜ、私たちと同じようにしないのか、全ての戒めから解き放たれて自由にしないのか。」「枷を壊し、縄を投げ捨てよ!」と言います。もし、そうするならばそこに私たちの幸いはあるでしょうか。
「王たちよ」(:10)と歌人は呼びかけます。 「今こそ、悟れ、諭しを受けよ、畏れつつ、主に仕えよ、震えつつ喜び踊れ、その足に口づけせよ 主の怒りが燃え上がる前に。」 「幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は」(:12)
人生における苦難の中で、主のもとに逃れる人は と読みますのは、詩篇、聖書全体から、私たちの身の回りに起こって来る全ての悩みとして受け止めるメッセージです。私たちは、この経験をして、慰めと癒しと力を受けます。 ただ、1篇の最後にもありましたように、私たちが見落としてはならないのは、主の怒りの前に、私たちがその裁きの激しさの只中にあって、どこに身を避けるのかということです。 私たちはこの世にある苦難を恐れますが、神の裁きを恐れません。
主の怒りが燃え上がる 神の戒め、神に従わない特にイスラエルに対して、そのような一例があります。 出エジプト記32章7~12、神である主によって、エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、神が立てられたモーセを見限り、道半ばで金の子牛を作ってそれを祭り上げることを行った時、主の怒りが燃え上がります。 モーセは宿営の門に立ち、民に言います「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」。モーセのもとに集まる者と、従わない者とに分かれます。「この日、民のうち3千人が倒れた」とあります。 世の試練の中にあって、逃れ場はあるかも知れない。しかし、神の裁きの前に逃れ場は「神である主のもと以外にありません」
最後に、この詩篇第2篇の「王」を理解する上で、新約聖書に大切な引用があります。 聖書に注のついているものには、あるかと思いますが、「あなたは私の子。私はあなたを生んだ」(:7)という言葉です。注の㉗を見ますと、マタイ、マルコ、ルカ、使徒言行録、ヘブルに引用されていることがわかります。 使徒言行録13:33を開きますと「つまり、神はイエスを復活させて、私たちの子孫のために約束を果たして下さったのです。それは詩篇第二編にも、『あなたは私の子、私は今日、あなたを生んだ』と書いてあるとおりです」と記されています。 注で示されたどの箇所も、この詩篇2篇の7節の「あなたは私の子、私は今日あなたを生んだ」と言われている、その人物、その王とはイエスであると言っています。主によって「油注がれ」「立てられた」「私の子」と呼ばれる王は、イエス・キリストである。 聖書教会共同訳では「子に口づけせよ」と訳しています。このお方を王とし、仕え、従い、ひれ伏し、讃えよ、とあります。地を相続させ、敵を打ち砕くのは「この王」です、と歌っているのです。聖書を以って〈聖書によって〉聖書を解釈するのは、はっきりとその意味を知るのにふさわしいことです。
* 静思(デボーション)の勧め 喧噪の中にあって、目を閉じ、黙って私の前に神を置き、ただ神の臨在の前にある自らを覚える時を持ちましょう。
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