2月2日(日)礼拝説教全文
「救いは主のもの」 詩篇3:1~9 嘆きと信頼の歌
ダビデについて
イスラエルの第二代目の王です。8人兄弟の末っ子で少年時代は羊飼いをしていました。 ペリシテ人の巨人兵士ゴリアテを一騎打ちで打倒し、武功を上げて初代王サウルに召し抱えられます。 ダビデの武功が上がるにつれて、嫉妬にかられたサウル王に何度も命を狙われますが、やがて時が来て、彼はイスラエル二代目の王となります。 彼は英雄王ではありますが、竪琴の名手で、詩人でもあります。サウル王に召し抱えられた時には、竪琴の演奏者としてもサウル王に気に入られていました。
[表題] 賛歌。ダビデの詩。ダビデが息子アブシャロムから逃げたときに。 詩の背景になっている出来事は、サムエル記下15~18章にあります。 ダビデ王は三男のアブシャロムから謀反を受けて、エルサレムの王城から「都落ち」をし、かつて彼が若かった頃、初代王サウルから命を狙われて逃亡していた荒野に身を落とします。 ダビデは周辺の国々を退け、多くの敵を打ち破ってきた戦いに猛き王です。ダビデ王のその武功に国々は震え上がったでしょう。それと同時に敵国から憎まれていたでしょう。 しかし、最大の敵は周辺の国々にあらず、自らの懐にいた三男アブサロムにありました。 ダビデはイスラエルの英雄王ですが、子育てにおいて、父として良い関係を結んでいたとは思えません。 あのダビデ王が、息子に鉄槌を下すことなく、みじめな姿で「都落ち」をしなければならない選択をしたことは、ダビデのその心中はどのようなものだったでしょう。 「ダビデは頭を覆い、はだしで、泣きながら、オリーブ山の坂道を上って行った。同行した人々も皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った」(サムエル記下15:30)
ダビデの都落ちの際、このような記事もあります。シムイは呪ってこう言った「出て行け。出て行け。血にまみれた男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なされたのだ。主がお前の息子アブシャロムに王位を渡されたのだ。お前は血にまみれているから、災いが降りかかったのだ」(サムエル記下16:5~13)「ダビデと家臣全員に向かって、石を投げつけた」
このような状況にあるダビデ自身の心中を、その背景にある出来事を知って一文一文を読みます時に、よりリアルにこの歌が、私たちに響きます。
2~3節
ダビデの生涯を読みます時に、彼ほどにドラマチックに波乱万丈の歩みをした人は少ないかと思います。詩篇を礼拝の中で読むとき、並行してダビデの生涯についてサムエル記を通して読むことは、とても有益であろうと思います。 波乱万丈の中には、たくさんの苦難を経験します。彼ほど信頼できる仲間や親友に囲まれると共に、多くの敵に囲まれていた人もいないかと思います。「なんと苦しみが多いことか」「立ち向かって来る者が多いことか」「呪いの言葉をもって私の心を突き刺してくる者が多いことか」。 彼は常に、敵から命を狙われていました。この歌の背景では息子に命を狙われています。 彼は踏みつけられては立ち上がり、倒れては立ち上がり、夜も眠ることができない中を何度も通ります。時には罪深い自分の姿に向き合って、心を割いて悔い改めます。様々な場面で、ダビデは詩を歌っています。 順風満帆な生涯ではない。しかし、彼は何度も立ち上がります。何度も立ち上がります。 彼は何によって立ち上がることができたのでしょうか。
4~9節a
「しかし、主よ。あなたこそわが盾、わが栄光、私の頭を起こす方」 「主に向かって声を上げれば、聖なる山から答えてくださる」 幾度、ダビデは子が父に助けを求めるように「主に向かって声を上げた」でしょう。そして幾度、主は彼の叫びに応えて下さったでしょう。 主よ、あなたこそが我が盾、わが栄光、私の(うなだれた)頭を起こす方。うつ向いて、うな垂れて顔も上げられない。そのような時に、 ダビデは主に向かって声を上げます「主よ、立ち上がってください。わが神よ、私をお救いください。全ての私の敵を打ち砕いてください」 身を横たえて眠れるのも、次の朝に目を覚ますのも、主の支えがあるからです。 取り囲む幾千もの敵を恐れることがないのは、主の支えがあるからです。 主の支えがなければ、私は一歩も進むことができません、というダビデの神に対する信頼の詩です。 自分で自らを救うことは出来ません。 私達キリスト者も同じです。 誰もこのような圧倒的に敵対者に囲まれる中で助けとなる者はいません。 ただ、ただ、主が私の支えです。 「救いは主のもの」です。
使徒言行録でペトロは聖霊に満たされて、人々に向かってこう言いました。「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリスト」とその御名について証して、 「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にはこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:10~12) 「救いは主のもの」です。
9節b
ダビデはこの詩を締めくくって、こう歌います。主よ「あなたの民の上に祝福を」。 サムエル記下15章~18章 アブシャロムの反逆、ダビデの都落ち、そしてアブシャロムの死に至るまで。是非一読していただきたいと思いますが、都を離れて、荒野に身を落としていく過程でダビデの取った態度、選択は、保身ではありません。イスラエルの民の祝福です。彼を退けた民をさえ、彼は祝福を願っています。 彼はイスラエルの王です。民の祝福をいかなる時にも願う王です。 そして、神に喜ばれる選択をした人です。
都落ちをしながらエルサレムを離れて行くダビデの姿と、十字架を背負ってゴルゴダの丘を上られるイエスの姿がだぶって見えます。 ののしられてもののしり返さず、呪いの言葉を投げかけられても呪い返さず、ただ黙々と、ご自身の民の祝福の為に、十字架を背負って歩まれるイエス。
「救いは主のもの」です。
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