2月9日(日)礼拝説教全文
「主よ、あなただけが」 詩篇4:1~9 主に信頼せよ 主だけが私に喜びを平安を与えてくださるお方
〈表題〉 指揮者によって。弦楽器で。賛歌。ダビデの詩。
詩篇4篇は、ダビデの詩です。多くの歴史批評家たちは、ダビデよりも後の時代に作られた詩であると述べますが、どちらであるかわからない中で、あえてダビデの詩でないと批評するよりもむしろ、私たちは文字通りにダビデの詩として、そのまま受け止めます。
「義の神」 (:2~6)
ダビデは「わが義の神よ」と神である主に呼びかけます。私たちの信頼する神は、「義なる神」です。正しいお方です。人は時代や、その境遇の中にあって、正しさを主張します。しかし、人間の正しさは時代によっても、人によっても異なり、特に、人は自らの義、正しさを主張して争います。人が主張する正しさは、健全に人を生活させる以上に、争いを巻き起こします。 戦争と言う、悲惨な大きな国の争いも、それぞれが自らの正しさを前に出して隣人を殺害します。 「正しいお方は、神である主のみです」と信じて、人は自らを低くして、神の正しさの前にひれ伏す時に、神の義と共に、真の平安を得ます。
「我が義の神よ。呼びかけに答えてください。あなたは私を苦しみから解き放って下さいました。私を憐れみ、祈りを聞いて下さい」と、ただお一人の義なる神に呼び求める者は幸いです。迷っても、悩んでも、自分で判断できなくても、大事なのは、「主に呼び求める」ことです。自分の義、自分の知恵に頼ってはなりません。 主に尋ね、主に求め、神の義に導いていただきましょう。私達教会の歩みも、信仰者の歩みもそうでありたいと思います。 「人が見て自ら正しいとする道でも、その終わりはついに死に至る道となるものがある」(箴言14:12 口語訳)。時に信仰者は、聖書の言葉を用いて、自らの正しさを主張します。自らの正しさを弁護する為に聖書の言葉を利用してはなりません。正しいのはあなたではなく、主です。 自分を正しさを持たない者として、主に尋ね求めるのが信仰者です。
神の義を求めない人、「神を辱める者」(:3)とは、「空しいものを愛し」「偽りを求める」者です。 「忠実な者」とは、「主に呼びかけ、主に答えていただき、自らの目的の為にではなく、翻って主の戒め・諭し・教えに従う者です」 正しい道を歩むために、「主に呼び求めていますか?」
「怒りに震えよ」(:5)
怒りに震えるな、とは歌っていません。 舌は最も制御しにくい私たちの身体の器官です。小さな火が森や山を燃やし尽くします。「舌は、私たちの器官の中で、不義の世界を成しています。それは体全体を汚し、人生の歩みを焼き尽くし、自らもゲヘナの火によって焼き尽くされます」ヤコブ3:1~12
「人は皆、聞くに早く語るに遅く、怒るに遅くなければならない」ヤコブ1:19
「愚か者は怒りをすべて吐き出すが、賢い人は自分を制御する」箴言29:11 私たちは怒りと舌を制御しなければなりません。
「床の上で心に語り、静まれ」と詩人は勧めます。 私は寝る前に、主の前に祈ります。今日はどのような一日であったか。感謝と共に、主の前に自分を吟味する時を持ちます。自分の口から出した言葉の選択が間違っていたことを、時々悔い改めます。「どうか私の口からあなたをあがめる言葉が発せられますように。私を支配してください。」 怒りを暴走させて、罪を犯してはなりません。そこに人の弱さがあります。怒る人は強い人ではなく、弱い人です。
「義のいけにえを献げ、主に信頼せよ」愚か者にならないで、主の諭しによって知恵を求めましょう。 「義のいけにえ」 私たちがささげる捧げものは、いけにえは、「神の御前に正しく生きることです」。幸いな者――それは「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人」です。
「御顔の光を昇らせてください(:7)
多くの者は言う「誰が私たちに恵みを示してくれるのか」。 主が、私たちに恵みを示してくださいます。 主が、御顔の光をもって私たちを照らして下さいます。 詩人は、主が恵み豊かであられ、御顔の光を昇らせ、照らして下さるお方である経験をしています。それは、彼が主に呼びかける者だからです。 しかし、多くの人は、主に呼びかけ求めるのではなく、「空しいもの」「偽りを求めて」います。その恵みを受け取り、感謝することもありません。 神の恵みを味わうことなく、感謝することもなく、「誰が私たちに恵みを示してくれるのか」とつぶやいて生涯を終えることは、何と空しいことでしょうか。
「主よ、あなただけが」(:8~9)
「私は身を横たえ、眠ります」(:9) ダビデらしい表現 です。詩篇3篇にも「私は身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから」とあります。 眠れることが、目覚めることが、ダビデにとって大きな主の恵みであることを感謝し、歌っています。
「主よ、あなただけが」この言葉は神に対する信頼と愛の賛美です。私たちはキリストの花嫁であると言う言い方もありますが、「あなただけ」は、結婚における結びの契約と置き換えることもできます。他の空しいもの、偽りを求めません。 主よ、あなただけが私たちの心のうちに喜びを与えて下さいます。 主よ、あなただけが私たちの心のうちに平安を与えてくださいます。
「喜びと平安」はキリスト者が、キリストにあって、キリストの救いを得た者として、常に神から与えられ、持っているものです。 今日も「主よ、あなただけが」と主に向かって告白する私たちでありたいと願います。そのような心を今日も創造者なる主に造っていただきましょう。
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