2月23日(日)礼拝説教全文

「憐れんでください」 詩篇6:1~11  

悔い改めの詩 -神との関係の回復 詩人の罪責感 病・敵・災害と罪の因果関係について- 

詩篇の中には「悔い改めの詩」と呼ばれるものが7つあります。 詩篇6、32、38、51、102、130、143 

〈表題〉 指揮者によって。弦楽器で。シェミニト(8の意味)による。賛歌。ダビデの詩。(:1) 詩篇6篇は、弦楽器に合わせて歌われた詩です。シェミニトは8という意味がありますが、8弦の竪琴と解釈する場合と、8音下げて(1オクターブ下げて)歌うという意味であると解釈する者もいます。 この詩は、詩人が自らの罪を深く悔い改め、神に赦しを嘆願する祈りですので、1オクターブ下げて歌うのには、声高らかにではなく、低く、重く、この歌を歌う手法として「シェミニト」と表記されていることもひとつの解釈として理解できます。 

ダビデがどのような罪を犯し、主にこの悔い改めの祈りをささげたのか定かではありませんが、彼は自らの犯した罪の重さを認めています。 ダビデはこの詩の中で、「主が私に怒りを燃やし、責め、憤りに任せて私を懲らしめておられる」と思っています。 苦難と主の怒り・裁き・懲らしめの関係 皆さんは自分の人生に苦難の出来事が起こった時、又、私たちの周りに禍が起こった時に、これは神の怒りであり、懲らしめだと思われることがあるでしょうか。私たちは、どちらかというと、「この人が罪を犯したのでもなく、その両親でもない、神の御業が現れるためだ」(ヨハネ9:1~12)と言われたイエスの言葉を思い起こします。因果応報という考え方を、何かに当てはめて語ることはほとんどありません。(占いや、まじない、新興宗教では、あなたの過去の過ちが今の不幸を呼び寄せていると言うでしょうが)しかし、自らの犯した罪を自覚した時に、「神の懲らしめを受けている」と言える人は幸いです。神である主は、ご自分の愛する者が、義の道、主の道からそれていることを良しとされるお方ではないからです。そのような義なるお方、罪に対して適当にされるお方でないことを知っているからです。 

表題や、詩の内容にありませんので、詩の歌われた背景をダビデの生涯のこれであると指定することはできませんが、これほどまでに主がダビデに怒りを燃やし、責めておられる内容は、サムエル記下11章~12勝にある「バト・シェバとの事件」を連想させます。詩篇51篇は、まさにその時の詩です。 

バト・シェバという女性をその夫から奪い、夫を戦いの激しい戦地に送って殺害するという、欲と保身に身を任せたダビデらしからぬ罪を犯します。ダビデの王権が堅く立つ中、王宮から町を見下ろした時に、水浴びをしていたバト・シェバに目が留まり、彼の心に魔が差します。「ダビデのしたことは、主の前に悪とされた」(サムエル記下11:27)とあります。ダビデとバト・シェバの間に男の子が生まれますが、その子は生まれてすぐに思い病気にかかり、そして死にます。その時に、神の前に「願い求め、断食して引きこもり、夜を徹して地に伏して」祈っているダビデの記事があります。(サムエル記下12:13~23) ダビデが死ぬならば納得いきますが、子供には何の責任もありませんが、ダビデに対する罰として、息子と言う代価が払われます。ここで間違えてならないのは、決して子供が苦難に合うのは親の罪の責任ではありません。 

 本日は「悔い改めの祈り」の詩です。 皆さんは神である主から「責められ」「懲らしめられる」という思いを抱いたことはあるでしょうか。 詩人は、自らの罪のゆえに「私は病み衰えています」「私の骨はおののいています」「私の魂は震えおののいています」と告白しています。実際に肉体が重い病気にかかったのか、それとも罪が明らかにされたことから来る心の苦悩の叫びなのか、それとも息子が重い病気にかかっていることへの苦悩なのか、いずれにしても、今ある苦難の状況が、自らの罪が原因となって「主による責めであり、懲らしめである」と詩人は認めています。 「主よ、憐れんでください」「癒してください」「助け出してください」「お救いください」と心を注ぎだして、主の前に手を差し出し、懇願しています。 * 古代の人は「断食をし」「荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めました」(ダニエル9:3、マタイ11:21) 

 「主よ、いつまでなのですか。」「主よ、帰って来てください」と、主の赦しと、神とのこれまでの良好な関係の回復を願っています。知ってください。罪は、そのままにしておくものではない。そのままにしておいてはならないことを。罪は私たちと神との関係を断つ、恐ろしいものであることを。

「主よ、私を憐れんでください。」「慈しみによって、お救い下さい。」 悔い改める者は、ただ、主が憐れみ豊かなお方、慈しみ豊かなお方であることを根拠に、そこにすがって、赦しを求めています。私たちの主は、義なる神ですが、憐れみ豊かな、慈しみ豊かなお方です。ハレルヤ! 

 詩人は自らの背負えない罪の大きさ、その罪責感の故に、「私は嘆き疲れました。夜ごと涙で寝床を浸し、床を漂わせています。憂いのために目は弱り、私を苦しめる者のために衰えました」。ダビデがダビデである所以は、もちろん歴戦の勇者であり、英雄王でありますが、神の前に「真に悔い改めた王」であることです。ダビデの生涯の記録よりもむしろ、彼の作った詩篇の詩にそれは克明に表現されています。罪を深く悔い改める者は幸いです。 

9節からは詩人の語調が変わっています。 主が私の祈りを聞いて下さり、私を苦しめる全ての敵を退けてくださったことを歌っています。 「主よ(この苦しみは、あなたが御顔を背けるのは)いつまでなのですか」。平安が来るまで、主の臨在が戻ってくるまで祈りましょう。「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言してくださる十字架のイエスを見上げましょう。 安易な悔い改めの祈りをすることもできます。しかし、時に、「荒布をまとって、灰をかぶって、断食をして」実際にそれをする必要はありませんが、心を裂いて、そのような思いを抱いて十字架を見上げ、神の憐れみと慈しみの豊かさに心動かされるまで、神の前にひれ伏す私たちでありたいと思います。 

「主は私の泣く声をお聞きになった。」「主が私の願いを聞き、主が私の祈りを受け入れてくださった。」 月に一度行われる聖餐式は、短い時間ではありますが、そのような時です。自分自身を深く吟味する時です。 私たちが悔い改めをする場所。神の憐れみと慈しみにすがる場所は、イエスの十字架の前です。安価ではありませんが、十字架の前で悔い改める私たちは、自分の罪の為に裁かれることはありません。既に、キリストが裁かれて、死んでくださったからです。罪の支払う報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、主イエス・キリストにある永遠の命です。 

「主よ、いつまでなのですか。」あなたの苦しみを、涙を、必ず、主は全く拭い去ってくださいます。 やがて、主の前に立つときには、私の罪・汚れを、十字架の血潮によって洗い流して下さった主にハレルヤ!と感謝の詩をおささげしましょう。  

日本ホーリネス教団 勝田台キリスト教会

2024年11月末までの勝田台キリスト教会のHPはこちらのアドレスでご覧になれます。 https://katsutadai-ch.amebaownd.com/ 千葉県八千代市勝田台7‐27‐11に所在するプロテスタントのキリスト教会です。

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