3月2日(日)礼拝説教全文
「心と思いを試す方」 詩篇7:1~18
本当に主を愛し、主を第一とし、主に従っているのか
表題 (:1)シガオン(よろめくの意味)=嘆きの詩・悲しみの詩 激しい音楽のリズムと言う解釈もあります。ダビデの詩 彼がベニヤミン人クシュの言葉に対して主に歌ったもの
ベニヤミン人クシュについては、聖書の中にその人物が登場しないので不明です。しかし、詩の内容から、詩篇6篇の罪ゆえに苦難を受けるのとは真逆で、ダビデは身に覚えのない罪で責められ、追われ、命を狙われているところから、この詩は、ダビデがサウル王から命を狙われた時のことを歌っているのではないかと考えられています。ダビデの命を狙ったサウル王も、ここに記されるクシュも、以前、ダビデが息子のアブシャロムに王位を奪われ、都落ちした際に、ダビデに呪いの言葉を吐き、石を投げつけたシムイ(サムエル記下16章)もベニヤミン人です。(*サウル王の後継者はベニヤミン族のイシュ・ボシェテ。しかし、ダビデはユダ族の者)
1、自らの潔白を訴えるダビデ(:4~6)
ダビデの命を狙い、彼の罪を責めるベニヤミン人クシュの言葉とは、「ダビデの手には不正がある」「親しい友に悪事を働いている」「敵を理由なく見逃した」。ダビデは、クシュの言葉に対して、もし、このようなことをしたのであれば、「敵が私の魂に追い迫り、追いつき、私の命を踏みにじり、私の栄光が塵にまみれてもかまいません」と自分の命と栄誉を賭して身の潔白を訴えています。 「主よ、私の義と潔白にふさわしく、私を裁いて下さい。」 神の前に自らの正しさを主張することは、決して良いこととは思えませんが、これがダビデの率直な気持ちです。「義人が何故苦しむのか」。ヨブが神に、自らの義・正しさを、苦悩の中で訴えた言葉を連想させます。
正しく生きるならば、苦難はないでしょうか。決してそうではありません。ダビデは、イスラエルの為に兵士として命を捧げて戦いました。そして、サウル王の為に、王国の為に死力を尽くしてきました。しかし、その王から、兵士から命を狙われ、云われなき罪の告発を投げかけられます。 罪を犯し、過ちを犯して、断罪され、苦しみを受けることは当然のことかもしれない。しかし、云われなき罪を押し付けられ、責められることに人は黙っておられないでしょう。ベニヤミン人クシュの言葉とはそのようなものです。
2、主の許に逃れるダビデ(:2~3,:7~10)
理不尽に云われなき罪の言葉を投げつけられ、命の危機に陥る者は、どこに身を寄せればよいのでしょうか。 ここにダビデのダビデたる姿があります。彼の逃れ場は、神のもとです。あなたの逃れ場はどこですか? 「わが神、主よ、私はみもとに逃れました。」「迫る来るすべての者(獅子の様に私の魂を引き裂き、もぎ取ろうとする者)から私を救い、助け出して下さい」
以前詩篇で、「あなただけが」というメッセージをしましたが、皆さん、いかなる苦難の中にも、真に頼りになるお方は、私たちの主だけです。鼻から息をする者に頼ってはなりません。 医療の助け、友人の助け、家族の助け、教会の助けは必要です。私たちは様々な人や、ものに支えられ、助けられています。しかし、どのような敵よりも力強く、あなたを助けるお方、救うお方は、主です。私たちが人生で「床に伏して」目の前に死が迫り、最後のひと息を吐く時に、罪と死から救うことのできるお方は、永遠の命であるイエスだけです。 「主よ、立ち上がってください。目を覚ましてください。高き審判の座にお戻りください。私を正しく裁いてください。悪しき者の悪を断ち、正しい者を堅く立たせてください」
3、ダビデの神理解(:10~12)
ダビデは信頼する神である主をこのように呼んでいます。「正しい方」「心と思いを試す方」「心のまっすぐな人を救う方」「正しく裁く方」「日ごとに、(悪しき者、不正な者に)憤りを表される方」 神は義なるお方(正しいお方)。公正(不正の秤でなく)に裁くお方。それゆえに、主の前に立つ者の心を深く探る方。人間の裁きは、不完全であり、必ず偏っています。
私たちは選挙によって国を指導する者を選んでいますが、同時に、「最高裁判所裁判官国民審査」というものがあります。最高裁判所は、犯した罪について刑が確定する最終法廷の場です、最高裁判所の裁判官は、憲法や法律に基づいて公正な裁判を行い、国民の権利を守るという大変重い責任を負っています。パーフェクトな公正な裁判は人間にはできません。知識においても、経験においても、良心においても完全ではないからです。誰も訴えられている者の内側まで見ることができないからです。人間ですので必ずその秤は偏ります。時にあってはならないことですが、冤罪ということが起こります。「私はやっていない」という冤罪の事件を題材にした映画がありましたが、身の潔白を主張しても、無実の罪で責められる苦しみはどのようなものでしょうか。
皆さん、私たちの人生の総括を、人生を与えてくださった神である主はどのように裁かれるでしょうか。 以前あるクリスチャンの方の自宅に、この聖書のことばが飾られていました。「愚か者は心の中で言う『神などいない』と。」詩篇14篇1節のことばです。「神などいない」「神の裁きなどない」そうであったならば、神を畏れることもない生活を送るでしょう。しかし、今ここで、聖書の言葉によって皆さんに伝えたいのは、裁きはあります。そして、ただ、神だけが義の審判者であり、罪と死と滅びから救う救済者です。神だけが正しい裁きを為さるお方です。
神の裁きの前に立つ私達。「義人はいない。ひとりもいない」全ての人が神の前には罪人です。 神の前に義とされるただひとつの道があります。神の御子、イエス・キリストの十字架の贖いによる神の義です。キリストにある者は、神の裁きによって滅びることはありません。罪に定められることがありません。私たちはそれをただ「信じる」信仰によって受け取れます。それは、ただで受け取れるのですが、「神の御子の命」という代価が払われている貴い救いです。
4、悪しき者の結末(:13~17)
「もし人が立ち帰らず・・・」。神である主は、あなたが神のもとに立ち帰って、「主のまっすぐな道」を生きることを求めておられます。 「剣を研ぎ、弓を引き絞って構えても、 悪事を宿し、害毒をはらみ、偽りを語り、暴虐を行っても、 敵を捕らえる罠である穴を深く掘っても、 全てのその労苦は、自分の頭上に帰って来る・・・。」 地上では悪が栄え、他者から搾取し、自らを肥やす者が太ります。しかし、最後に審判者である神の前に立つその時は、その行った労苦は、自らの頭の上に、まとめて降ります。
5、感謝とたたえの歌(:18) 詩篇の構成は多くが「嘆願」→「信頼」→「賛美」になっているとお話ししました。苦難の中で神に訴え、その中で神に信頼し、やがて私たちの心の内は、力強い神の救い・助け・慰めによって、その唇から、神をたたえる歌が溢れる。祈りの中で、賛美の中で、主を礼拝する中で、そのような経験をします。詩篇7篇もその類に漏れず、最後は、「その義のゆえに、私は感謝します」「いと高き方、主の名をほめ歌います」と締めくくっています。 苦難の中にあって、主を逃れ場とし、感謝と賛美が溢れるまで、この詩を口ずさみましょう。
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