3月16日(日)礼拝説教全文
「人とは何者なのか」 詩篇8:1~10
〈表題〉 指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
(:1) ギティト=「ガテ・酒ぶね」に由来する楽器(大きな太鼓?)または歌い方。ぶどう搾りの歌とも言われています。これは、天地創造の神の御手をほめたたえる「たたえ」の歌です。主、その御名は「いかに力強いことか」
2節3節の解釈から
最も力のない小さな弱い者のためにも、神ご自身の威厳をもって敵に報復し静めてくださる神。 力のある者が力のない者に勝つのは世の常です。 しかし、私たちがいかに力がなくとも、神は神の威厳を私たちの前に置いてくださり、勝利を与えて下さいます。少年ダビデが歴戦の兵士ゴリアトに勝利することは全く不可能に人々には見えたでしょう。これが、キリスト者の強さです。
詩篇8篇の構成としては、2節と10節が同じ表現、「主よ、我らの主よ、御名は全地にいかに力強いことか」を用いて、神の力強さをたたえて始まり、たたえて終わっています。 ダビデは夜、天を見上げ、神の創造の偉大さの中で感じたことを歌います。 「あなたの指の業である天を、あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う」。
イスラエル旅行に行きました時に、シナイ山のふもとに宿泊し、夜中に出発して山頂で朝日を迎えて、シナイ山山頂から広大な風景を見るという行程を進みました。イスラエルで荒野をバスで通過する中でもそうでしたが、夜になると、日本で見るのとは全く違って、星が無数に輝く夜空に出会いました。アブラハムに神である主が「空の星を数えてごらんなさい。あなたの子孫をその星の数程に祝福する」と言われた約束の言葉を思います。皆さんも、町明かりの届かない大自然の中で夜を迎えます時に、圧倒される星空に感動を覚えたことがあるかと思います。
ダビデは拡がる夜空を見て何を思ったでしょうか。 それは自らの小ささです。 …私は偉大な王と言われて人々に称賛されるが、わが身をこの広大な天・宇宙(そら)の下に、神のその偉大さの下に置くと、私は何と小さなものであることか… 詩篇90:4に「まことにあなたの目には、千年といえど過ぎ去った一日のようだ」とありますが、神の前には、私たちの一生も、今日芽生えて、明日枯れてしぼむ草のようなものです。 人は誰かと比べて、自分をまるで大きな者、賢い者、力ある者であるかのように勘違いしますが、神の前に出るならば、比べることのできない小さな者です。
人が真に謙虚さを学ぶ場所があるとするならば、それは神の御前です。
ダビデは、本当に偉大な神である主の前に、自分が余りに小さな、価値のない者です、と告白する思いの中で、「そのような者にあなたが心に留めてくださる」「あなたが顧みていてくださる」、「人とは、人の子とは何者なのでしょうか。」と歌っています。 この偉大な、力強い天地を創造された神が、この私を心に留めていてくださる、顧みていてくださる。 Amazing grace! なんという驚くべき恵みであることか!
ダビデは「人とは、人間とは何者であるのか」という問いに、神は人を特別な存在として創造されたことを告げられます。それは創世記を通して、得ている信仰であり、知恵です。 「あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ」 「栄光と誉れの冠を授け」 「御手の業を治めさせ」 「あらゆるもの(羊・牛・野の獣・空の鳥・海の魚・潮路をよぎるもの)をその足元に置かれた」 創世記1章、天地創造にある人間の創造の記事を読みますと、他の被造物と異なる表現として「神は人を自分のかたちに創造された」(1:26~27)とあります。 そして、人に対して「あらゆる生き物を従わせ、治めよ」(1:28)と言われました。
日本の環境省の生物多様白書によりますと、直近100年で100万種あたり10~100種が絶滅しており、哺乳類の2割、鳥類の1割、両生類の3割が絶滅危惧種に選定されています。また絶滅したと判断された種は、795種(動物705種、植物90種)となっています。国連で平成13~17年に実施されたミレニアム生態系評価では、100年間で100万種あたり10~100種が絶滅していたとしています。過去100年間で記録のある哺乳類、鳥類、両生類で絶滅したと評価されたのは2万種中100種であり、これを100万種あたりの絶滅種数とすると5,000種となるため、過去と比較して絶滅のスピードが増していることが分かります。(環境省・生物多様性白書・第二部二章一節「失われゆく野生生物」世界の野生生物の現状から)
鳥以外の野生動物を街中で私たちは見ることがほとんどなくなりました。 この八千代市にも多くの野生動物が、かつては生息していたことだろうと想像します。 それほどに私たちは関心を向けてはいないかも知れませんが、神に造られた全てのもの、自然も生き物も名前をつけて管理することを、神は私たちに任せておられます。
「神に僅かに劣る者とされ」の「劣る者」というヘブル語は「ハサル」と言う言葉が使われていて「足りない」「欠ける」という意味があります。 僅かに劣るというのは、神より少し低いという印象が残りますが、もちろん、神である主と私たちは比べることのできない天地以上の差があります。しかし、このように表現していることはまことに不遜の表現にも聞こえますが、人は足りない者、欠けた者、と読むことは、自らを理解する上で、とても大事なことです。 哲学者パスカルは、「人間の心の中には神によってしか埋められない空間がある。」と言いました。人が男だけではなく。「男と女に創造された」のもその通りです。 人は欠けていて補い合う存在、人間であり、そして、神によってしか埋めることのできない欠けを持っていることを自認したいと思います。
人とは何者なのでしょう。私とは何者なのでしょう。 あなたを神は心に留めていてくださいます。 あなたを神は顧みてくださっています。
* ヘブライ人への手紙2:6~8に詩篇8編の引用があります。人の子をイエスと解釈しています。
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