5月4日(日)礼拝説教全文
「心を尽くして主に感謝せよ」詩篇9:1~21
アルファベットによる詩とありますように、詩篇9編と、それに続く10篇はひとつの詩とも言われています。詩の各行の出だしがヘブル語22文字のアルファベットの順番に並べられています。アレフ(ベート、ギメル…)からタウまで。詩篇の中には、このような「アルファベット詩篇」と言われるものが9つあります。9篇、10篇、25篇、34篇、37篇、111篇、112篇、119篇、145篇。心に留めて覚えやすくするため、数え歌のような形式であることが特徴です。
見出し 指揮者によって、ムトラベンという音楽の調子・調べ。(ムトベラン=意味は不明)。賛歌。ダビデの詩。途中の〔 〕のヒガヨン・セラは、楽器演奏のため間を置く、歌のない楽器による間奏のようなもので、セラは、休止・黙想・節の終わりを意味していると解釈されています。9篇の最後にセラがありますので、そこで休止し、10篇が続いていると思われます。
感謝(:1~11)
「アルファベット詩篇」、9篇は感謝から始まります。
「私は心を尽くして主に感謝を献げます」(:1)
ダビデの生涯は、これまでの詩篇の彼の詩の中でも見てきたとおり、多くの苦難、敵対する者に囲まれ、命の危機の連続でした。周辺の様々な民や部族から攻撃され、又、時には仕えてきたサウル王や、自分の息子アブシャロムや、同国の民からも敵対され、その度に「主に信頼し」危機を乗り越えて来ました。 彼は英雄王でありましたが、詩人でもありました。彼の歌った多くの歌は「嘆きの歌」です。主よ、私を助けて下さい、救ってください、守ってくださいと彼は何度主に訴え、願ったことでしょう。 私たちも同じではないでしょうか。何度、主に助けて下さい、救ってくださいと願う者でしょうか。そして、主は何度「奇しき業」をもって、私たちの祈りに応えてくださるお方でしょうか。
ダビデがその生涯で繰り返し受けて来た恵み、「主の奇しき業」は、4節~9節にある通り、ダビデの信頼する主が、正しい、義と公平の審判者として、とこしえにその御位に座し、ダビデの敵を退け、滅ぼし尽くされるというものです。彼にとって主は、万軍の主であり、彼を愛し、保護されるお方です。 主は、「義と公平の神」「虐げられた人の砦、苦難の時の砦」です。
弱い立場にある者は、その貧しさ、力のなさ、知識のなさ、又、生い立ち、人種、性別によって、強い者、権力のある者から虐げを受けます。人は自らを強い者として振る舞う者(レメク)と弱いものであると自覚する者(レメシュ)に分かれます。また、弱い者であっても時にさらに弱い者を虐げます。ここに人間の性質、醜く汚れた罪があります。傲慢という大罪がなければ、人の世は何と幸いなものとなるでしょうか。私たちの全ての人間関係において、社会においてそうです。人はどこでへりくだる事を学ぶのでしょうか。
さて、ダビデは、繰り返して自らの弱さを告白し、虐げる者、敵対する者たちから「主の奇しき業」によって救い出されました。いくつ彼の歌にそのような主に救われた歌があることでしょう。彼は自らの歌を詠み、振り返る度に、主に感謝を献げていたことでしょう。彼の自分の経験であります。「私は心を尽くして主に感謝を献げます」。
この説教を準備しながら、私自身も、自分に与えられた「主の奇しき業」を数えました。幼少時代からどこを振り返っても「主の奇しき業」に満ちていることが分かります。信仰をもって、主に信頼して歩んで、この齢に至ることができたことを覚えます。 最近自分が学生時代に作った賛美を作り直して、それを聴くことが多いのですが、どれもこれも、自分に主が与えて下さった「奇しき業」であることを振り返ることができます。歌詞に一番多く出てきますのは、「主が共にいてくださる」「主への感謝・賛美」です。説教の後に「望みも消えゆくまでに」という賛美を皆で歌いますが、数えてみましょう、あなたに与えられた主の恵みを。 主は、主に信頼し、主に尋ね求める者を、決してお見捨てになりません。 ダビデは「私は心を尽くして主に感謝を献げ、その奇しき業をすべて語り告げよう」と、ここで歌っています。 彼は心に思うだけではない。 感謝とは、心にありがたいと感じ、その謝意を言葉や行動をもって表すに至って「感謝」となります。 あなたの「主の奇しき業」を語ってください。
賛美(:12~15)
感謝をささげる方法は、言葉を発する(語る)ことと、感謝の心を表す献げ物と、もうひとつあります。それは歌による賛美です。自分にしていただいた奇しき業を告げ知らせるだけでなく、この素晴らしい恵みを与えて下さった主を「歌をもって」ほめ歌うのです。 「あなたへの賛美をすべて語り告げよう。娘シオンの門で、あなたの救いに喜び踊ろう」(:15)
「言葉」と「歌」と「踊り」は神がこの世界に与えて下さった素晴らしい祝福です。これをもって、私たちは神と交わり、神を褒め称えます。風に揺れるもの言わない花でさえ、喜び踊っています。 「賛美」は私たちの霊を魂を、神から与えられた息を解き放ちます。あなたの信仰は息切れしていませんか。その解放こそが、この地上の世にはない主にある喜びです。 私たち信仰者の生涯は、どれほど多く「賛美」を主に献げることでしょう。呪いや、愚痴や、人を裁く言葉ではなく、私たちの口に門守を置き、賛美で満たしましょう。
神の知恵(:16~21)
感謝と賛美を献げたダビデは、自らの経験から、王として民に教訓を与えます 「己の力に頼むことなく」「己が人(エノシュ=息・弱い者)にすぎないことを悟れ。」 自らの力を過信し、暴虐を振るう者に、神の裁きが下ります。その者は、「自らの掘った滅びの穴に落ち」「自ら仕掛けた網に足を取られ」「己の仕掛けた罠にかかり」「陰府に帰り」ます。
貧しい人、苦しむ人は、神に忘れられてはいません。その希望が滅びることは決してありません。
嘆願「主よ、立ち上がってください」(:20) 「人が己の力に頼むことなく、力を奮い虐げる者・国々が、神の御前に裁かれますように」
「主よ、思い知らせてください」(:21) 「己が人にすぎないことを」
傲慢に支配される私たちが、神に畏れを抱く者であるように。 ダビデは王として、人としての最高権力者でもありました。何でも自分の思いのままに国を支配し、民に命じることができる立場にありました。そのような権力を人は持つと、傲慢に支配され、自らの権力をもって人を、民を虐げる者になります。ダビデが王としてそうならなかったのは、「神に畏れを抱く者」であったからだと分かります。
皆さん、どんな知恵や知識、能力を得るに優って、「主を畏れることは知識の初め」(箴言1:7)、全ての基礎・土台です。それが欠如した上に何を建てたとしても、神の義と公平の審判の前に残るものは一つもありません。
0コメント